私が見た創価学会 4


私が見た創価学会 4

後編  〝信心活動=選挙活動〟だった想い出
ウグイス嬢として活躍したあの頃

善福寺信徒 大渕清子
(元・創価学会女子部本部長)

四、全て選挙のために費やされた日々

昭和五十五年夏の衆・参同時選挙は、一つでさえ大変な国政選挙が二つ重なったために、睡眠を削ってもさばききれないほどの仕事量がありました。
一番大変なことは、五月十七日から六月二十二日の投票日までを四期に分けて、組織を動かすことです。当時の日程表(※別掲)やメモが残っていましたので、それに基づいて簡単に説明します。

●第一期(5月17日~5月29日)
「人脈に総当たりする」
※これは、全活動家が人脈をたどって総当たりし、F票(=非学会員の公明支持票)見込み者を開拓し、固める期間です。この活動を徹底させるために、支部長会・大B長会・大B協議会・報告会などの会合が、間隙を縫って頻繁に設けられています。(註・大B=当時の学会組織の単位)
また、公示前日(5月29日)の「ポスターの撤去」も、学会員の活動予定に組み込まれています。
●第二期(5月30日~6月5日)
「公示本番にあたり、Fに総当たりする」
※衆・参、それぞれの公示日(5月30日)に「大B出陣式」が設けられ、選挙ハガキを「大Bまでおろす(振り分ける)」ことになっています。そのハガキについては、衆院選用は、有力なFにお願いして、まだ公明党支持の固まっていないFへ出してもらい、参院選用は、内部(学会)の活動者がFに出す、とされています。
●第三期(6月6日~6月15日)
「徹底した拡大」
・6月12日以降は、夜も電話作戦を行なう。
・選挙日まであと十日に迫った6月13日の「大B活動者会」で、中盤の選挙情勢分析  を発表し、その席で、〝他党から一票をもぎとること〟と、〝14、15の土日は票が  固まる大事な時期だから、中だるみを廃して終盤戦に突入すること〟を訴える。
●第四期(6月16日~6月22日の投票日まで)
「総攻撃」
・6月16日の「大B協議会」で〝総攻撃〟を打ち出す。
・大B幹部は、18日の「大B長会」までに、投票日当日の〝連れ出し態勢〟の準備を  完了させる。
※〝連れ出し態勢〟とは、学会員がFを自動車等で投票所に連れていくことで、目的は、公明党候補者の名前を途中でダメ押しするためです。完全な選挙違反ですが、学会の内部では、「これは選挙活動ではなく、投票活動の応援しているのだ、と弁解しなさい」と教育します。
・6月19日の「大B活動者会」をもって、最後の三日間の総突撃を敢行する。

この四期にわたる活動日程に合わせ、個人演説会・立会演説会・遊説・ポスター貼り・ビラ配布等をきめ細かく実行に移していくのです。
その中で最も力を入れて推進するのが、〝不在者投票〟です。不在者投票に連れ出したFは、八〇パーセントから九〇パーセントが公明候補に投票します。投票所から出てきた後、「ちゃんと○○さんに入れた?」と聞きますので、確実な数字です。これが、学会の見えざる最高戦術で、私もずいぶん、不在者投票に知人を連れ出したものです。

五、激しい選挙戦に感じた虚しさ

前回も述べたように、当時、区の女子部本部長であった私は、この選挙でウグイス嬢の担当幹部を任されていました。
板橋文化会館の二階では、私達ウグイス嬢に対し、幹部より、本部の意向に基づく指導がありましたが、当時の信心指導のポイントは、〝広宣流布のために選挙は不可欠の戦いであること〟〝勝つためには、池田先生の心にギヤを合わせていくことに尽きる〟というものです。間違っても、池田会長の辞任(※本紙三月一日号に詳述)によって新会長に就任したはずの北条会長にギヤを合わせる、という指導はありませんでした。
そして、信心指導が終わると、会議室で、衆議院東京第九区松本候補の遊説コースと街頭演説の場所の確認、参議院東京地方区三木候補および同全国区大川候補の遊説コースを確認し、その手順を打ち合わせます。
板橋文化会館の会議室には、候補者のポスターやポスター用の証紙、ポスターを貼り付けるベニヤ板、個人ビラとそれに貼る証紙、チラシ、選挙ハガキ等が各本部別に仕分けられていました。それらの全てが、深夜までかけて手際よく搬送され、区内十一ヶ所に設けられた公明党選挙本部に届けられていくのです。
私は、選挙戦を重ねるうちに、だんだん虚しさを感じてくることもありました。折伏よりも選挙に膨大なエネルギーをつぎ込んでいる学会の活動現場に身を置いていると、「こんなことで広宣流布が本当にできるんだろうか」との疑問が湧いてきたのです。
ある時、恐る恐るその疑問を、区の選挙対策幹部の一人であった小川頼宣氏(現在は法華講員)にぶつけてみました。ちょうど、内部告発等で池田大作の女性スキャンダルがマスコミをにぎわせている頃でもありました。
小川さんは、「そうだね、御書には〝政権をとれ〟とはおっしゃっていない。選挙活動の理論的根拠は、戸田先生の〝王仏冥合論〟によるわけだけれど、これはあくまでも試論にすぎない。僕個人としては、選挙を百年やったとしても広宣流布とは関係ないと思う。本音を言うと、じつは選挙に飽き飽きしてるんだ」と、慎重に答えてくれました。その時、私だけじゃなかったのだ、と安堵したことを、今でも覚えています。
ちなみに、秋谷栄之助副会長(当時)クラスを総指令として、組織の隅々まで選挙態勢で戦った、この昭和五十五年の夏の衆・参同時選挙では、衆議院候補の松本氏は落選してしまいました。

六、結び

この選挙の頃、『週刊文春』では、創価学会の内部告発が盛んに報じられていました。これも、選挙戦の敗因の一つだったのでしょう。
そして、その直後に内部告発者が覆面をとって、同誌に実名を公表しました。それは、原島嵩教学部長でした。
隠しようのなくなった学会本部からは、
「(原島氏については)全ての役職を解任し、除名した。昨年の十一月以来、池田先生はかばっておられたが、重ねての家族の説得も聞かず、家を出てしまった」「六老僧の中で退転した民部日向は学頭職にあったのであり、今でいえば教学部長にあたる。創立五〇周年の節にこのようなことがあるのは、仏法の方程式である」(主旨)などと説明がありました。
私は、なるほどとは思いましたが、なぜ選挙が終わった後の発表なのだろう、と割り切れないものを感じました。
前の年には、次期会長レースのトップを走っているとされていた福島源次郎副会長が大牟田事件で失脚していました。続いて原島教学部長が内部告発です。
この二人は、池田大作の側近中の側近であり、学会内の「師弟不二論」の双壁でした。私は、この二人の指導を聞いて、池田大作を人生の師匠と思い定めて歩いてきたのです。その二人でさえ実践できないような学会の師弟論とは、いったい何なのだろうか、と思い、深いため息をつくばかりでした。
そして、後年、前編(本紙三月一日号に掲載)でも述べたような経緯で創価学会を脱会し、法華講員となったのですが、今にして思えば、池田大作は日蓮正宗から破門される以前より、大聖人の仏法を利用して〝天下取り〟を狙っていたのであり、学会員はその野望の手駒にされていたにすぎない、ということが、本当によくわかります。
以上
【慧妙平成21年5月1日号より転載】