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慧妙 2015年2月16日号
学会は邪心により明文も見えなくなった!
大御本尊こそ出世の本懐、根本の本尊
『聖教新聞』(一月二十九日・三十日)に学会教学部による「会則の教義条項改正に関する解説㊤・㊦」が載(の)った。
これは先般、会則を変更して大御本尊への信仰を否定したことで、日蓮正宗から厳しい破折を受け、会員の動揺が拡がっているのを抑えるための発表であることは言うまでもない。
その内容は、わざとわかりにくい表現と構成で会員を煙に巻こうとしている節があるが、詳細に読んでみると、従来の学会の教義解釈(主に、大石寺二十六世日寛上人によって体系化された、
日蓮正宗の相伝教学に依拠している)を完全に捨て去り、身延等の他門流日蓮宗と変わらぬ教義に塗り変えるものであった。
すなわち、創価学会はこれによって、自らが身延等と全く同等同列になったことを、あらためて世界に向かって表明したのである。
ことの重大さに気付いていない(煙に巻かれてしまった)会員のため、以下に説明していこう。
まず、今回、学会教学部が発表した会則の教義条項改正に関する「解説」(以下「解説」と呼ぶ)は、大きく分けて、「御本尊は全て同じである」「学会が自由に本尊を認定できる」という
二つの柱から成っている。
最初の「御本尊は全て同じである」との内容は、いうまでもなく、弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊の意義を否定することを目的としたものである。
学会の「三大秘法」は身延と大同
その第一、「三大秘法」についてでは、
《今回、三大秘法についての解釈を次のように明らかにした。すなわち、末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅(まんだら)と、それを書写した本尊は、
すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく「本門の本尊」である。また、「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、
その唱える場がそのまま「本門の戒壇」となる》等と述べている。
だが、全ての本尊を等しく「本門の本尊」だというなら、身延や池上にある大聖人直筆の本尊も、その複製の本尊も、全て等しく「本門の本尊」であることになる。このような本尊観を立てるならば、
もはや学会は、根本において身延等の日蓮宗と変わらない。
また、それら「本門の本尊」に題目を唱える場がそのまま「本門の戒壇」である(要するに、「本門の戒壇」としての特定の場所はない)とする戒壇論についても、
日蓮大聖人の『三大秘法抄』『一期弘法抄』における御教示とは大違いである。大聖人は、一閻浮提(いちえんぶだい)の人々が参詣する信仰の中心地として、霊山浄土に似た最勝の地・富士山に
「本門の戒壇」を建立すべきことを説かれているのである。
学会の主張は、〝富士戒壇(すなわち大石寺)〟を否定したい身延等の他門流の邪義と、全く同根である。
宗祖の「出世の本懐」は明瞭
第二に、「出世の本懐」についてでは、大聖人が立宗から二十七年目(弘安二年)にして出世の本懐を遂(と)げる、と自ら宣言あそばされた『聖人御難事』に対し、
《大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」について一言も言及されていない。(中略)本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」「伝教大師」を挙げて、
それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「余は二十七年なり」と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。
(中略)その意味で、「出世の本懐」の本義は、大聖人の御生涯において、末法万年の一切衆生の救済のために三大秘法を確立されたこと、それとともに、立宗以来27年目に、熱原の法難において、
農民信徒たちが大難に負けない不惜身命(ふしゃくしんみょう)の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立である》などと、解(わか)ったような解らないような、無理な解説(怪説)を加えている。
だが大聖人は、すでに『阿仏房御書』において、曼荼羅御本尊が「出世の本懐」である、と明言しておられ、それに加えて本抄『聖人御難事』で、立宗から二十七年目の弘安二年に出世の本懐を遂げる、
と宣言あそばされたのだから、数多(あまた)の曼荼羅御本尊の中でも「弘安二年の御本尊」こそが真の出世の本懐(本懐中の本懐)であることは明らかである。
ここまで明確な道理と事実を無視して、《「弘安2年の御本尊」について一言も言及されていない》などと言うのは、大御本尊を否定したいがための大謗法の邪心によって
全く物が見えなくなっているのであり、これまた、身延をはじめとする他門流と何ら変わるところがない。
相伝を無視しては正義は立たず
寛尊を侮り身延の仲間入り
第三に、「一大秘法・六大秘法」についてでは、《三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものには説かれていない。
(中略)その意昧で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない》などとして、日寛上人が体系的に説かれた三大秘法の開合の義を捨棄する、と述べている。
だが、そもそも「表現が御書そのものには説かれていない」というなら、御書には、日蓮大聖人が御本仏であることも、大聖人の顕(あら)わされた大曼荼羅が釈尊より遥(はる)かに勝れる
御本尊であることも、直接的な表現では説かれていない。それらの正義は、大聖人から日興上人はじめ御歴代上人へと伝わる相伝によって、はじめて明らかになるのであり、
それを体系的にまとめられたのが第二十六世日寛上人の教学である。
その相伝教学を用いない、ということは、もはや学会が、完全に身延等の他門流に仲間入りすることを宣言したも同然である。
なお学会は、こうして日寛上人の相伝教学を捨棄しても、「日寛上人書写の御本尊」(※学会製ニセ本尊のこと)を受持するのは問題ない、として
《なぜならば「日寛上人書写の御本尊」も根本の法である南無妙法蓮華経を具体的に現された「本門の本尊」であるからである》
などと述べているが、それなら、南無妙法蓮華経を顕わした本尊でありさえすれば、他教団の貫主であれ在家であれ、誰が書いた本尊でも全て拝んでよいことになるではないか。
学会が身延等と同じになったことは、もはや誰の目にも明らかである。
「本尊認定」の言い訳で開き直る
次に、「学会が自由に御本尊を認定できる」との二つ目の柱であるが、この中で学会は、「御本尊を認定する権能」として
《いずれの宗教教団も、独立した教団である以上、その教団の本尊、聖典、礼拝施設等を決定する権能を有するのは当然である。(中略)創価学会は、受持の対象としての御本尊を認定する権能を有する》
と述べ、学会は独立教団だから本尊の選定は自由にできる、と開き直った。
この論法なら、身延も立正佼成会も皆、独立教団だから《御本尊を認定する権能を有する》ということになる。
無理に自己の正当化を謀(はか)ろうとした結果、他宗他門の正当性まで主張することになるとは、まったくお粗末きわまりないが、このようにして学会は、いっそう他の邪宗教と
馴染(なじ)んでいくのだろう。
しかして最後に、「学会が認定する広宣流布のための御本尊」について、《原点の地・信濃町に、師弟不二、広布の本陣として、「広宣流布大誓堂」を建立され、
まさに「法華弘通のはたじるし」としての「大法弘通慈折広宣流布大願成就」とお認(したた)めの「創価学会常住」の御本尊を御安置申し上げた》としている。
だが、その「創価学会常住の御本尊」を書写されたのは、いったいどなたであろうか。学会が「大謗法と化した他教団の大石寺」と罵(ののし)る大石寺の第六十四世日昇上人ではないか。
また、日昇上人が「書写」あそばされたのは、学会のいう「根本の法である南無妙法蓮華経」ではなく、大石寺にまします弘安二年の本門戒壇の大御本尊を「書写」あそばされたのである。
「他教団」の御法主が書写された御本尊を、その意義を隠して、「広宣流布のための御本尊」として利用する――、盗っ人猛々(たけだけ)しいとは、まさにこのことであろう。
以上、縷々(るる)述べてきたが、今や創価学会は、完全に身延等の他門流と変わらない宗教に成り果てた(と言えば、他門流教団が気を悪くするかもしれないが)。
会員諸氏には一日も早く事実に目覚めてほしいものである。
学会は権門の輩と同じ〝守文の徒〟
なお、「広宣部」と称する狂信(盲信)的学会員らが、本紙からの破折に対して、主に
「弘安二年の御本尊が根本の本尊であるということを、人師・論師(※二十六世日寛上人を指している)の釈ではなく、大聖人の御書で示してみろ」等という戯言(たわごと)を並べて反論したつもりに
なっているという。これでは、
「法華宗では一念三千が法華経の極理だというが、法華経の文には一念三千という語は見当たらない」
との疑難をなした、権宗権門の輩(やから)と同じ守文(しゅもん)の徒(と)である。恥を知れ!と言っておこう。
また、こうした連中に惑(まど)わされている末端学会員のために、弘安二年の御本尊が根本の大御本尊にましますことを、次号で重ねて論証することにしよう。
矛盾だらけ、盗人猛々しい学会の立義