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2018年 5月1日 号
第10回
資料 『水滸会遺誡置文』(原文)
【第一冊】 (5)外交
一、日本の中立
二、国境廃止
三、移民政策
四、賠償政策
五、朝鮮問題
六、河野外交
七、ネール外交
連載
他門流からの
疑難を 破す
第3回
仏滅讃文の主意と御本尊書写の深義②
「戒壇本尊の仏滅年次は矛盾」だって!?
「指摘した文献あり」と嘯く大埜
論拠の三書は仏滅年次を論じたものに非ず
義難のために文書を漁り浅識の馬脚現わす
(3面)
連載
創価学会 教学試験の
日蓮正宗批判を 破す
第16回
「僧俗差別義」なるイメージ操作
学会の中にも上下の差別あるはず
万人に平等なのは御本尊受持の功徳!
連載
学会メディアを破す!
連載
法華講員が心得たい御聖訓百選
健気なる 信心の在り方
第19回
御本尊に向かい奉る心持ち②
「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然(しか)れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身(しょうしん)の釈迦如来にあひ(相)まい(進)らせたりとおぼしめすべし。」(『四条金吾殿御返事』御書六二一頁)
我々の信仰における「釈迦仏」というのは、久遠元初の釈尊である日蓮大聖人の御事であり、「法華経」というのは、末法の法華経である御本尊であります。
〝大聖人と御本尊とは、姿形は変わっていても、じつは一体である。大聖人即御本尊であるから、我々がこの御本尊を拝し奉(たてまつ)る時には、生きておられる大聖人にお会いしているのだ、と思わなければならない〟と仰せられています。
ですから、我々が御本尊に朝夕、御給仕(おきゅうじ)したり勤行をする時には、大聖人にお目にかかっているのだということを、しっかり自覚しなければいけない、ということであります。
自らを振り返ってみて、寝間着(ねまき)で勤行をしたり、御本尊に御給仕するのにお水を軽々しくポンと置いたり、というようなことをしていなかったでしょうか。生きておられる大聖人に差し上げるように、お水を高く捧(ささ)げ持って、御本尊にお供えしていたでしょうか。
あるいは、御飯を食べる間は寝ないのに、勤行になると必ず寝てしまう、という人がいます。
食事をしながらも寝てしまうほど疲れている、ということであれば、まだ許されると思いますが、そうではなくて、勤行になると寝てしまうとすれば、これはやはり、〝生きておられる大聖人にお目にかかっている〟という信心がない、と言わざるをえません。
やはり、御本尊に向かう時には、生きておられる大聖人に向かい奉っているのだ、という心持ちでなければいけない、ということであります。
御本尊には大聖人に向かう心持で
安易な御給仕・寝間着での勤行に注意
(4面)
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