私が見た創価学会 3


私が見た創価学会 3

中 編  池田の「お詫び登山」と「引責辞任」
幹部も何も知らされていなかった!

善福寺信徒 大渕清子
(元・創価学会女子部本部長)

二、昭和五十三年の「お詫び登山」

昭和五十三年の十一月、在京の幹部は、突然の招集によって東京都立体育館の前に集められ、そこからバスで総本山の大講堂に連れて行かれました。区の女子部本部長であった私も、その一人でした。
そして、大講堂に居並ぶ幹部達の前で、池田大作は日達上人に深々と頭を下げてお詫びをしました。
私は、何のことやら、さっぱり訳がわかりませんでした。私の周りにいた人達も、「あれ! 池田先生が日達上人にお詫びをしているよ。どうして…?」と囁いていました。
これが、後に「お詫び登山」と称されているもので、創価学会の「第一次教義逸脱問題」(昭和五十二年路線)を御宗門から指摘され、進退きわまった池田が総本山にお詫びして破門を免れようとしたものだった、と私が知ったのは、ずっと後のことでした。外部からは信じ難いことかもしれませんが、その時点では一握りの首脳部以外、学会員は誰一人として、この日の会合の主旨を知らなかったのです。
そして、それから約五ヶ月後の昭和五十四年四月、池田大作は、突然、創価学会の会長を辞任しました。その時、学会本部では、「後進に道を譲るための勇退だ」とマスコミに鼓吹(こすい)しました。
しかし、池田大作を日蓮大聖人の生まれ変わりのように信じていた幹部達は、この本部の説明を誰も納得していませんでした。何が何だかわからないまま、ただ、その事態を受け入れるしかなかったのです。
私が、この辞任の本当の理由――つまり、「お詫び登山」以後も改まらない学会の方向性を御宗門から指弾されて、池田が責任をとっての辞任であった、と知ったのも、学会を離れてからのことです。
さらに、近年、『懺悔滅罪のために』(暁鐘編集室・平成一九年発行)で、その会長辞任の直後に、池田が何と言っていたかを知り、驚きました。
そこには、学会の教学部長(当時)であった原島嵩氏が実際に遭遇した話として、
「池田大作は、まず、首脳や最高幹部を締め上げました。五月三日(※「本部総会」の日)の直後、『創価学会は俺そのものだ。私が創価学会の魂だ。お前達は、私の全財産をただ預かっているに過ぎないのだから、【一時お預かりいたします】という一札を書くべきだ。また、私を〝永遠の師〟と仰いでいく、ということも、誓約したらどうだ』と言い、皆から誓約書を取りました。会長を退いたといっても、全てはそのまま、第一庶務も特別室も専用施設も全く変わりません」
と書かれていたのです。
当時の私達には知るよしもありませんでしたが、裏ではそのようなことがあったのか、と、あらためて池田の権力欲のすさまじさに驚いた次第です。

三、「政教一致は当たり前」の感覚

さて、その頃、『月刊ペン』(昭和五十一年三月号・四月号)のスクープに端を発し、池田大作の女性問題が週刊誌などで大変な騒ぎになっていました。
私は、初めははタチの悪いヤラセ記事だと思っていましたが、騒ぎは止む気配もありません。そして次第に、本当のことかもしれない、と思いはじめました。それは私ばかりでなく、創価学会の現場は、納得しがたい説明を繰り返す本部に対し、不信感が積み重なっていきました。
そうした状況の昭和五十五年、学会挙げての総力戦を余儀なくされる参議院選挙の年を迎えました。しかも、直前の衆議院解散により、創価学会にとって一番苦手な、衆・参同時選挙を戦うことになったのです。
参議院選挙は東京地方区と全国区がありますから、実際はトリプル選挙です。公明党候補者の票を取るためには、投票所で三人の名前を書いてもらわなければなりません。三人の候補者の名前を覚えさせるだけでも、大変な手間ひまが掛かります。
五月に入ると、六月二十二日の投票日に向けて、学会活動は選挙一色になりました。秋谷副会長(当時)からは、戦いに先立ち、次のような指導がありました。
「三種類の候補者名をいかに覚えさせるかが鍵だ。F(=フレンド票。非学会員の公明党支持者)は、三人も名前を覚えなさいと言われると、三番目あたりでだんだんイヤになるだろう。それでも、なんとか仕上げていってもらいたい。」
「東京全体で団結して、このトリプル選挙を勝ち取っていこう。衆議院の一区と八区は、辛勝がやっとで、参議院の票まで手が回るかどうかわからない。そこで余力のある選挙区がカバーして、参議院を押し込んでゆく戦いを展開してもらいたい。」
「池田先生からは、『大変だけれど、北条、秋谷を中心にして、公明党・創価学会は異体同心で戦っていきなさい。お互いに護り、励まして、この戦いを乗り越えていこう』とのお話がありました。最大のチャンスが来たと思って、遮二無二でも突っ込んで、現場の白兵戦で勝利をもぎ取っていきましょう。」(以上、趣旨)
このことからもわかるように、前年に引責辞任したはずの池田大作は、舌の根も乾かぬうちに隠然たる支配力を発揮し、選挙戦の号令を掛けていたのです。
板橋区の女子部本部長だった私は、その選挙戦でウグイス嬢の担当幹部を任され、板橋文化会館の二階和室で、選挙カーに乗るウグイス嬢に細かい技術を教えました。
板橋文化会館の一階会議室では、全国主任部長で第四東京副青年部長の小川頼宣氏(※現在は法華講員)ら、担当の大幹部が詰めて、選挙戦の指揮を執っていました。
後に、「政教一致問題」の象徴として、非課税の特権を受けた宗教施設が選挙の際の公明党の根城になっていることを他党から追及され、創価学会側は苦しい言い逃れをしましたが、ひとたび選挙ともなれば会館がフル活用されるのは、紛れもない事実であります。
平成二〇年、矢野元公明党委員長が週刊誌誌上で創価学会を告発した中にも、「会館が選挙のために使われており、政教一致と疑われても仕方がない」というくだりがありましたが、私の経験に即して言えば、これは本当のことであり、私達にとっては当たり前のことでした。
学会員だった頃の私が所属していた地域では、区議会議員選挙、衆議院議員選挙、参議院議員選挙、都議会議員選挙等を全て、板橋文化会館を中心に選挙活動が行なわれました。
当時の私は、それに対して何の疑問も感じていませんでした。それどころか使命感に燃え、いそいそと選挙活動に頑張っていたのです。今にして思えば、創価学会という、狭窄(きょうさく)な社会の中でしか物を見ていなかったことを、つくづくと思い知るばかりです。
次回は、創価学会で経験してきた選挙活動の実態について紹介します。
【平成21年4月1日号より転載】