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慧妙 2016年1月1日
連載 池田大作 日本制覇のシナリオ
「水滸会記録」を検証する!(第79回)
元・創価学会本部広報部副部長 小川頼宣
池田創価王国の内政批判 その50
池田創価王国の始原を検証する㊼
壊滅させられた共産主義者たち
極秘資料が語る戦時学会と特高との関係
なぜ非公開にする必要があったのか
連載
(3面)
ネット上に蔓延る邪義を破す
最終回
血脈と開眼をオカルトと謗ずる邪難を破す
近年のネット上における、謗法者の悪意ある中傷誹謗(ひぼう)の書き込みは、いまだに後を絶たない。
今回は、宗門における血脈の尊厳と、御本尊の開眼に関する邪難を取り上げ、破折してみたいと思う。
ネットを閲覧すると、以下のような邪難がある。
「釈尊も天台も日蓮大聖人も、仏教の中に神秘・秘密主義的・超能力的なものを取り入れていないのである。ゆえに、血脈とか、開眼とか、呪術的な加持祈祷(きとう)とかは、説かれていない」
「既にある御本尊に魂を入れたり取ったりする超能力が具(そな)わる、とでも言うのであろうか。これでは、まるでオカルト宗教ではないか。法主が開眼しなければ、御本尊の力用(りきゆう)はない、と御書のどこに書いてあるのか。このような仏法と全く関係のない超能力なんぞ、大聖人が一番禁じられている」等々という内容である。
つまり唯授一人の血脈相承や御本尊に魂を入れる開眼の法儀は、神秘的で超能力のようなものであり、このような呪術的な教義は大聖人も取り入れていない、として、血脈の尊厳と御本尊の開眼を全否定しているのだ。
本宗より離反した者共がこの邪義を唱える背景には、自分達の教団と偽(ニセ)本尊を正当化せん、との意図がある。要するに、自分達の教団が生き延びていくための、保身の邪義である。
だが、これらの疑難は、宗門七百年の法水を軽んじる恐るべき謗法行為であることを、まず最初に指摘しておく。
さて、末法衆生を救済する下種仏法を、大聖人已来今日に至るまで正しく護持伝承してきたのは、大石寺の御歴代上人であり、創価学会が正法正義に巡り会えたのも、この血脈相伝の恩恵によるものである。
また、宗門から破門される以前の学会員が下附された御本尊にしても、宗門古来よりの化儀伝統に則(のっと)り、すべて御法主上人が開眼供養なされてきたのは紛(まぎ)れもない事実であり、これを会員宅に安置し、信仰に励んできたことも、また事実である。
にもかかわらず、血脈相承と御本尊開眼を超能力などと揶揄(やゆ)し、あたかも非現実的なおとぎ話であるかのごとくに軽んじる、昨今の謗法者たちの暴言は、けっして許されるものではない。
そもそも、自分たちの知らぬ事柄をすべて否定する態度は、難信難解の法門を体得しようと志す仏教者の姿勢ではない。
また、目に見える事物以外をオカルトと揶揄する、唯物論的な偏見に陥(おちい)った彼らの見方からすれば、法華経の説相にある宝塔の涌現も、竜女成仏も、地涌の菩薩の出現も、すべて架空の話となろうし、ひいては御本尊の功徳力も、超能力や超常現象としか捉えられなくなる。
だが、法華経に 「如来秘密神通之力」と説かれ、また天台大師も 「妙とは不可思議に名づく」
と仰せのように、仏が説かれた真理(妙法蓮華経)とは、凡夫の頭では推(お)し量(はか)ることのできない、秘密・神通の法である。
このことは、大聖人も『義浄房御書』に、
「法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり」(御書六六八頁)と仰せのごとくである。
されば、血脈や開眼について「神秘的・秘密主義的・超能力的なものは仏法と無関係」などと謗じて平然としている連中の疑難が、これらの金言に真っ向から違背していることは明白で、これ以上の反論は要しない。
疑難者共は、自らを仏法者と任じながら、その実、非仏法者・唯物論者に堕していることに気付くべきであろう。呵々。
仏法はもとより不思議・秘密・神通の法
唯物論的見方の誹謗者には理解不能!
連載
変貌した創価学会
第24回
矛盾だらけの「三代会長」
昨年、創価学会はまたも会則を改変し、三代会長を「指導者」から「広宣流布の永遠の師匠」へと格上げした。他にも勤行要典の改変を行ない、学会の独立教団としての性格を全面に出してきている。
まず、三代会長までのくくりである必要が、どこにあるのだろうか。そして四代会長以降の立場はどうなるのだろうか。
学会会則をみると、四代会長以降については〈「三代会長」を継承し、その指導および精神に基づき、この会を統理する〉とあり、あくまでも三代会長の指導・精神を根幹にして継(つ)ぐだけの存在であり、実質的に重要なのは三代の会長だけなのである。
さて、学会の初代会長牧口常三郎氏・第二代会長戸田城聖氏は、本門戒壇の大御本尊を信仰する立場をとっていた。本門戒壇の大御本尊を否定することはなかったのである。
戸田氏は「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば車にのせて、大御本尊様の御もとに案内して行くのが、学会唯一の使命である。宝の山に入って、宝を取るか取らないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれ学会の尊(とうと)い使命なのである」と指導している。学会の唯一の使命とは、本門戒壇の大御本尊を信仰せしめていくことにあったのではないか。
しかし、第三代会長の池田大作は「本門戒壇の板御本尊がなんだ! 寛尊は、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです」と発言するなど、根本である本門戒壇の大御本尊を否定する内容の指導を打ち出した。
三代までの会長を永遠の師匠とするときに、三人のうちの誰の指導をもって広宣流布へ進むのだろうか。
そもそも広宣流布について、初代・第二代会長は、本門戒壇の大御本尊が弘まることが広宣流布であると言い、第三代の池田は、創価学会が認定する本尊の流布が広宣流布である、とするらしい。どちらが広宣流布への指導として正しいのであろうか。永遠の師匠とされる三代の会長の指導において、このように矛盾(むじゅん)しているのである。
『聖教新聞』に〈日々の信仰実践の中で「三代会長」を「広宣流布の永遠の師匠」と仰ぎ、師弟不二の信心を確認していくことが重要です〉(平成二十七年十一月十七日付)とある。三代会長に師弟不二の立場をとるということであるが、現状は牧口氏・戸田氏は亡くなり、池田しか存命していない。そこで池田との師弟不二の立場をとるとしたら、初代・二代とは真逆の信仰となり、まさしく頭破作七分の姿となる。
また池田の亡くなった後は、三代会長を永遠の師匠とすると言いながら、結局は、本門戒壇の大御本尊を否定した池田だけを師匠と仰ぎ、本門戒壇の大御本尊を信仰した初代・二代の会長とは師弟不二をしない、ということになっていくであろう。
四代目以降の会長は、三代目の精神を継ぐだけであり、それが広宣流布へと繋(つな)がるはずはない。事実、現会長の意見は弱く、過去の池田の指導がどこまでも学会の根本となっている。
一応は三代会長であるが、本当は三代目会長の池田を信仰の根本に据(す)え、日蓮世界宗ならぬ池田世界宗としていくのだろう。
今後の創価学会が、重ねて、どう会則を変え、宗教的独自性の名のもとに池田を本仏にしていくかが見ものである。
良識ある学会員には、初代・二代会長が本門戒壇の大御本尊を根本としていたことを思い出し、変貌した三代目会長の支配から離れ、真実の永遠の師匠のもとに帰伏してもらいたいものである。
大御本尊信じた初代・二代と、誹謗した三代
連載 法華講員の弁えたい信条
第42回
四十二、体験談を重用する
「道理・証文よりも現証にはすぎず」
体験こそが人の心を動かす鍵に
(4面)