大結集と総登山の阻止を目論む創価学会の悪口誹謗を粉砕する!


大結集と総登山の阻止を目論む創価学会の悪口誹謗を粉砕する!

大聖人・日寛上人に違背し反逆した学会
かつての会長指導とも大矛盾!

七万五千大結集総会・五十万総登山を是が非でも成就させまいと謀る創価学会は、『創価新報』や『聖教新聞』、そして怪文書に、思いつくかぎりの悪口雑言を並べ立て、我々日蓮正宗僧俗の士気を削(そ)ごうと必死になっている。
「『登山地獄』の日顕宗」「灼熱(しゃくねつ)地獄再現の『7万5千総会』」「まるで奴隷(どれい)扱い」「目当ては御開扉料」「法華講登山残酷(ざんこく)史」――。これらは皆、『創価新報』(二月四日付)に躍(おど)った見出しである。
このような『創価新報』や怪文書に踊らされ、さらに正法を誹謗(ひぼう)して罪障を積み続ける一般学会員こそ哀れ。
今回は、創価学会の「登山地獄」なる誹謗中傷を一喝(いっかつ)する。

広布の人材輩出目指す大結集・総登山
誹謗する学会には全く信心なし!

『立正安国論』正義顕揚七百五十年を慶祝し、本年一年間を通じて行なわれる五十万総登山と、七月二十六日に行なわれる七万五千名大結集総会――。これは、日蓮正宗僧俗ならすでに承知のように、平成十四年十月の奉安堂落慶大法要の砌(みぎり)、第六十七世日顕上人が仰せ出された「地涌倍増と大結集」との御命題を、現御法主・第六十八世日如上人が具現化されたものである。
しかして御法主日如上人は、〝七万五千名の大結集総会は、次なる広布への戦いの中核を担(にな)う人材の大出陣式であり、また五十万総登山は、講中の全員が互いに声を掛け、残らず総本山へ参詣して大功徳を積むべく行なわれるものである〟と御指南あそばされている。
この御指南を拝した日蓮正宗僧俗は、年初より、七万五千に連なる人材の輩出を決意し、また全講員が残らず登山できるように、日々、登山の推進に努めているのである。
それを、「灼熱地獄再現の7万5千総会」だとか「帳尻を合わせるためには、一人に何回も登山させる『複数回登山』」「登山地獄の日顕宗」(『新報』)などと誹謗する創価学会には、まったく信心というものがわかっていない(当然ではあるが)。

大聖人は困難を超えての登山を賞賛
学会の基準ではこれも「登山地獄」

そもそも日蓮大聖人は、山賊・海賊の横行する中を、路銀も欠乏した状態で、一千余里を歩んで大聖人のもとへ参詣した信徒・日妙女に、聖人号を与えて
「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云」
(御書六〇七頁)
と絶賛され、また九十歳の老齢で、危険な道中を二十日以上も歩んで参詣した阿仏房と、その阿仏房をさし遣(つか)わされた妻の信心を
「去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間此の山中に候に、佐渡国より三度まで夫をつかわす。いくらほどの御心ざしぞ。大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」
(御書一二五三頁)
「佐渡の国より此の国までは山海を隔(へだ)てゝ千里に及び候に、女人の御身として法華経を志しましますによりて、年々に夫を使ひとして御訪(とぶら)ひあり。定めて法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏、其の御心をしろしめすらん」
(御書一二九〇頁)
等と賞賛されている。
また、悪天候や遠距離を超えて参詣すべきことについては、
「雨ふり、かぜ(風)ふき、人のせい(制)するにこそ心ざしはあらわれ候へ」
(御書一二四六頁)
「道のとをきに心ざしのあらわるゝにや」
(御書六八九頁)
等と御教示あそばされ、病のため、しばらく大聖人のもとへの参詣が滞(とどこお)っていた南条時光殿に対しては
「参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし」
(御書一五六九頁)
と、一日も早く病(やまい)を平癒(へいゆ)して参詣するよう、その求道心を喚起されているのである。
これらの大聖人の御金言も、信心なき創価学会首脳から見れば、「登山地獄」「体調不良だろうが高齢者だろうがお構いなし」「まるで奴隷扱い」「一人ももれなく全信徒が登山しろ、というノルマ」としか映らないであろう。
彼奴等は、日蓮正宗憎しのあまり、大聖人が御示しあそばされた〝登山参詣の精神〟をも蹂躙(じゅうりん)し尽くしていることに、とんと気付いていないのである。無惨としか言いようがない。

大聖人は「毎年度々の参詣で罪障消滅」と
かつては池田大作も「毎月の登山」を強調

また、一人でも多くの講員が登山できるよう、年に一度の機会に限らず、複数回の支部登山を実施することについて、学会は「人数稼ぎの複数回登山」だの「意味がない」だのと誹謗している。
これについても、日蓮大聖人は
「毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」
(御書一五〇二頁)
と仰せられ、むしろ、年にたびたびの登山参詣に励むよう勧(すす)められているのだから、「意味がない」などというのは大聖人に対する反逆の暴言である。
また池田大作自身、かつては
「霊鷲山への参詣、月一回。先生の直弟子としてこれを歓(よろこ)び、これを実行できぬようでは、正信の人とはいいきれない」(『若き日の日記Ⅱ』一五九頁)
と述べて、毎月一回、歓んで登山できぬ者は正信の者とはいえない、と述べていたではないか。
ついでに指摘しておくが、昭和三十九年に大客殿完成を期して行なわれた三百万総登山――これには多くの学会員が「複数回登山」していたのである。
これらの事実を承知の上で、なおかつ「複数回登山では意味がない」「登山地獄」「ノルマ」等と言うのであれば、それは悪口のための悪口、怨嫉(おんしつ)謗法の薄汚ない念慮(ねんりょ)のなせる業(わざ)、というべきだろう。

「わずかな御開扉供養でもったいない」と戸田氏
二十六世日寛上人は「志ある人は登山せよ」と

最後に、この五十万総登山を「目当ては御開扉料」(『新報』)などと罵(ののし)る輩は、次の言葉をよくよく吟味せよ。
「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている。」(『戸田城聖全集』三巻四九〇頁)
これは戸田二代会長の指導であるが、「目当ては御開扉料」などという言葉をみれば、この戸田氏の信心が欠片(かけら)もなくなってしまったのが今日の創価学会である、ということが如実にわかるではないか。まことに唾棄(だき)すべき醜(みにく)い心根という以外ない。
二十六世日寛上人の御教示にのたまわく、
「金口の相承と申して一器の水を一器に瀉(うつ)すが如く三大秘法を付属なされて大石寺にのみ止まれり。(中略)既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則ば本門の題目なり。志(こころざし)有らん人は登山して拝したまへ」(富要集十巻一三一頁)
と。
創価学会員諸氏よ、一日も早く学会の過ちに気付き、総本山大石寺への登山の志を起こすべきである。
【慧妙平成21年3月1日号より転載】