私が見た創価学会 1
学会の公認通訳として見た池田の姿
それは失望の連続だった――
理境坊所属妙観講 後呂聖子
私は学会二世として、創価学会員の両親のもとに生まれました。両親は、学会の活動拠点として我が家を提供し、広布のためにと、より広い会場を目指して引っ越したり、家を建て替えたり、百畳敷きの会館を提供したり、熱心に活動を行なってきました。
そうしたなかでも、私が静岡の高校にいた頃、母がある女性と大親友だったことから、その女性が池田センセーの愛人であることを知りました。
その女性は、結婚していて夫も子供もいます。御主人は、自分の妻とセンセーとの関係を承知していて、何も言わない御褒美として、センセーから大幹部に任命されたというのです。
多感な年頃だった私は、そのようなことにおぞましさを感じながらも、中学時代からの夢であった通訳になるために勉学に励み、第二志望の創価大学に入学することになりました。
そして、在学中に「通訳になりたいのは、単なる自己満足ではなく、世界中に日蓮大聖人の仏法を求めている人達がいて、その人達に仏法を正しく伝えるためである」と自覚してからは、さらに一心不乱に英語の勉強と信心活動に打ち込みました。
間近に接してショック!
当時は、池田センセーの英語の通訳として、矢倉涼子さんが活躍中でした。その矢倉さんが私の大学在学中に結婚することになり、〝ポスト矢倉涼子〟選びが始まって、まだ学生だった私にも白羽の矢が立ち、私は「涼子部隊」と称される通訳のメンバーに選ばれました。
そのグループの目的は、〝矢倉涼子に続く、池田センセーのお役に立てる通訳を育成する〟というもので、英語以外の言語も含め、全部で七、八人はいたと思います。
それまでは比較的遠い存在だった池田センセーを、私がすぐ目の前で見たのも、この涼子部隊の集まりの時でした。それまでは、池田センセーが大学に来た時に、一緒に記念写真を撮ったり、講演を聞いたり、会食会に参加したりということは数多くありましたが、私は大勢の中の一人にしかすぎませんでした。それが、私のすぐ目の前でセンセーに接する機会ができたのです。
間近で接したセンセーに対する私の印象は、「ふんぞり返っていて、何と不遜な態度の人なんだろう」という強烈なものでした。しかし、その頃の私は〝池田センセーは、信心の絶対的な指導者〟と信じていましたので、すぐさま、「自分は何て信心がないんだろう! そんなふうに思ったのは、自分の心が汚ないからだ」と思い直し、自分の直感をかき消しました。
その席では、さらに腑に落ちないことがありました。
涼子部隊の一人がセンセーに、「八〇歳を越えた祖母が体も弱っていて、どうしたらよいか」との質問をしたところ、センセーからは、「もう、そこまで生きたのだから、いいよ」といった返事が返ってきたのです。
私にはどうにも納得のいかない返事でしたが、それもまた、深く考えないようにして、心の中に封印しました。
今にして思えば、誰人たりとも、「あなたはもう充分に生きたからよい」とか「悪い」とかと判断を下す権利など、あるはずがなく、正しい仏法信仰者の言葉としては、「最後まで福徳を積ませてあげられるように、家族で助けてあげましょう」と言うべきだろう、と思います。
いずれにせよ、これが生(なま)の池田センセーとの最初の出会いでした。
異常な「恋愛禁止」のこだわり
その後、大学を卒業した私は、池田センセーから認められた最年少の「公認通訳」に任命され、本部でも池田センセーの通訳になるべく、どんどん訓練を受けていきました。国際部長からも女子部長からも後押しを受けて、センセーのもとへ、センセーのもとへと連れていかれました。
その間、同じようにセンセーの通訳になるべく訓練を受けていたポルトガル語の通訳者は、彼氏を作ったことで池田センセーの逆鱗(げきりん)に触れ、「目的が違う!」と怒鳴られて、通訳を降ろされました。池田センセーの通訳になるには、彼氏を作ることは御法度(ごはっと)だったのです。
私もそれは厳重に注意を受けていました。「彼氏ができると、そちらに心が奪われて、センセーの通訳に集中できないから」というのが理由です。
これもまた、私にはどうしても納得のいかないことの一つでした。「本物の信心というのは、周りにどんな誘惑があろうが魔の働きがあろうが、それらに影響されない強い自分を築いていくことではないのか。そうでなければ、センセーの通訳は一生結婚できないことになる」と。
その「恋愛禁止令」がセンセーの意志であることを、強く認識させられたのは、私が通訳の仕事でアメリカに長期出張していた時のことです。その時、たまたまセンセーも訪米してきて、数名の通訳と共にセンセーに再会する機会があったのですが、センセーは、まずは会って早々、私を指さして、「えーと、これは何だっけね、これは?」と、まるで物扱いするかのように聞いてきました。
私は少しショックで、何も答えられずにいると、周りの人が私の立場を説明してくれました。すると、センセーは急に、「彼氏はいるのか?」と何の脈絡もなく聞いてきたのです。二、三回、畳みかけるように同じ質問をしてきましたので、私が「いいえ」とだけ答えると、センセーは「イヤー心配だ!心配だ!」と言い出し、側にいた第一庶務の女性にすぐさま何か指示を出していました。
後でわかったのですが、その第一庶務の女性は、私がアメリカにいる間、定期的に連絡を取っていくように、と言われたのだそうで、私に彼氏ができていないかどうかの監視役として彼女を付けたようです。
「身代わり勤行」に呆然!
私がアメリカに行く二年くらい前、学会本部でセンセーと会食を共にする機会がありました。海外から来た婦人部のメンバーも交えた、六人ほどの席でした。
その時、第一庶務の若くて綺麗な女性にいろいろと世話を焼いてもらっているセンセーの姿を見て、私は素朴に、「どうして、ご飯を食べるくらい自分でできないのか」と不思議に思ってしまいました。
しかも、間近でセンセーが食べる姿を見ていると、何だかとても下品なのです。平気で口を開けたままゲップはするし、音を立てて食べるし、という感じでした。
また、センセーは、勤行もまともにしていなかったのではないでしょうか。私は、矢倉涼子さんの口から、こういうことを聞きました。
「センセーがソ連に行く時は、共産圏で勤行ができないから、私がセンセーのために朝晩とも二回ずつ勤行するの。」
共産圏といえども、ホテルの部屋で勤行することはできるはずです。私は、センセーが勤行をしないという事実を知った衝撃が大きくて、信じられない思いでしたが、二度にわたって矢倉涼子さんから同じことを聞きました。
なお、身代わりで勤行するほどセンセーの信頼が厚く、近年に至るまでずっとセンセーの側に仕えていた矢倉涼子さんは、二年ほど前、大麻所持で逮捕されるという事件を起こしましたが、これが今の池田創価学会の現実を物語って余りあるような気がしてなりません。
通訳に困ったアドリブ暴言
さて、私がセンセーの口から宗門攻撃の言葉を初めて聞いたのは、一九九〇年(平成二年)の八月頃でした。学会本部に海外メンバーが集った時に、いきなり宗門の悪口を言い始めたのです。
しかも何の脈絡もなく、「みんな騙されちゃいけない!」という檄(げき)を何度も飛ばし、矢倉涼子さんも通訳に困っていました。
一度、次のようなことがありました。
センセーは、講演直前に通訳の所に原稿を届けさせました。矢倉涼子さんが一人で全てに目を通すことは不可能だったので、皆で手分けをして翻訳文を書き込みました。
それを、センセーのスピーチに合わせて矢倉涼子さんが読み上げようとしたのですが、何人もの人の手書きで読みにくかったことに加え、センセーがアドリブで言う宗門攻撃には脈絡がないので、彼女はものすごく苦労していました。後で彼女が、「もう、泣きたかった」とこぼしていました。
センセーの口から怨念のように宗門誹謗が繰り返され、あげくは「五座の勤行はしなくていいんだ」などと言い出したのを聞いて、私は、学会は完全におかしい、と思うようになり、平成三年の三月、ついに家族全員で脱会いたしました。
【慧妙平成21年2月1日号より転載】