通諜は実在した!


やはり学会文書「通諜」は実在した
返還された押収書類の中に約三十通
〝事実無根説〟総崩れ・ これが実物カラー写真だ

偽造写真事件で窮地に立たされている学会では、会員から疑惑の眼が向くのを必死にかわそうとして、インチキ新聞『創価新報』を使い、かの戦中の学会文書「通諜」を「戦後の偽書」「捏造文書のプロの仕業」「宗門の愚かな画策」であるとするキャンペーンを打ち上げた。だが、この必死の悪あがきも、正真正銘の「通諜」の実物が提示されてしまえば、すべて崩壊する。ここに本紙は、学会の「愚かな画策」を粉砕すべく、「通諜」の実物カラー写真を初公開し、併せて同文書の伝わった経緯と背景を明らかにするものである。

「通諜」の所在と伝わった経緯

一つの事実は百万の言葉に勝る。まず、このカラー写真をご覧いただきたい。これが、かねて騒がれてきた、昭和十八年六月二十五日付・戸田城外(後に城聖と改め)理事長名の「通諜」・・その実物である。
この文書は、東京の稲葉荘氏(学会の初代総務・稲葉伊之助氏の子息)宅に保管されていたもので、かつてフリーライターの溝口敦氏も『池田大作・創価王国の野望』(紀尾井書房刊)中に
「今回の取材で初めて確認したのだが、この通牒は真物である。もともとの出所は稲葉荘氏で、稲葉氏は同家の地下室に収蔵していたため、文書は湿気で周辺部がボロボロになった。現在、同文書は同大同形の紙で裏打ちされ、たしかに畳(たた)まれて保存されているが、畳まれたときの破損状況は理にかなって作為はあり得ない」
と述べ、これを『妙観』紙(平成四年五月十五日付)でも引用掲載したことがある。
しかるに今回の新報のキャンペーンでは、何故か稲葉氏の名には少しも触れず、ひたすら、野島辰次氏(元副理事長)作成説を批判してみたり、「戦後に入信した、ある特定の法華講員」による後世の偽作と勝手に決めつけたりしている。おそらく、稲葉氏について触れれば、同氏宅に「通諜」の実物が保管されていることがクローズアップされてしまい、それがもし〝実物鑑定〟にまで発展してしまえば、同文書が戦中のものと判明してしまう・・それが、学会にとっては至極、都合が悪かったからであろう。
だが、そうした姑息な考えに基づく策謀も、ここに「通諜」の実物を提示したことで、すべて吹っ飛んでしまった。すなわち、いかに「通諜が存在しなかった証拠」をあれこれ考え出してみたところで、実物が存在している以上、すべてが空論と化してしまうからである。
さて、動かぬ証拠ともいうべき「通諜」の実物を提示した上で、さらに、これが稲葉氏宅に伝わった経緯と背景について述べる。
昭和十八年七月六日、牧口会長・戸田理事長・矢島周平氏・稲葉伊之助氏らが逮捕された際、各人の家は特高警察の刑事達によって捜索され、関係資料の一切(この中には、なんと御本尊までが含まれていた)が押収されてしまった。
稲葉氏宅の場合、この押収資料が返還されることになったのは、ようやく戦後十年も経った昭和三十年頃のことであり、リヤカーを引いて資料の受け取りに行ったということである。
その折、伊之助氏の娘(荘氏の姉)が牧口氏の息子・洋三氏(戦死)に嫁いでいる、という縁戚関係があったことから、当局より、牧口氏の押収資料も一緒に引き渡され、稲葉荘氏はハトロン紙に包んだ返還資料を二人分(二個口)持ち帰ってきた。
そして、当時すでに二代会長に就任していた戸田会長に架電し、牧口氏の分の返還資料の処置について相談したところ、
「それは荘君が保管していてくれ」
との指示であった。
そこで稲葉氏宅では、いったん二個の包みを開き、その中味を一緒に保管するところとなったのだが、昭和三十五年に池田が三代会長に就任して後、柏原ヤスを通じて、
「保管されている牧口先生の分の資料を、記念品として学会に引き渡してほしい」
旨、申し入れがなされた。
こうして、ほとんどの牧口氏の資料が学会に引き渡されたのだが、稲葉氏宅では、二個の包みをほどいて中味だけを一緒に保管していたため、牧口氏の携行用の小さな御書を含め若干の引き渡し洩れが生じたのであった。そして・・この引き渡し洩れの牧口氏の資料の中にあったか、あるいは稲葉氏の分の資料の中にあったか、定かに区分けすることはできないが、ともかく、そのとき稲葉氏宅に残った資料の中に、ワラ半紙にガリ版刷りの「通諜」があったのである。その数、およそ三十枚・・。
稲葉氏宅では、この文書がそれほど重大な問題になるものとは夢にも思わず、他の資料と共に、再び地下室に収蔵したのであった。その後、湿気の多い地下室に長期収蔵されたため、同文書は多くが破損滅失し、残りは各関係先へ資料として寄贈された(幸いにして三通の「通諜」の現存が確認されている)。
以上が、稲葉氏宅に「通諜」が伝わった経緯である。

「通諜」にまつわる謎を解明
傍証となる学会側記録も明らか

このことから、さらに立ち入って考えてみると、「通諜」が入っていたのは、おそらく牧口氏宅から押収された資料の中、と考えて間違いない。
何故ならば、もし稲葉氏宅からの押収資料の中にあったとすれば、少なくとも昭和十八年七月六日の逮捕前に、「通諜」は稲葉伊之助氏に渡されていたことになる(それも三十枚も)。
むろん、「通諜」の宛て先が当時の「各理事・各支部長」となっていることからすれば、理事であった稲葉伊之助氏に渡っていても不思議はないが、だとすれば、当時の副理事長であった野島辰次氏が「通諜」の存在を知らない(と思われる)ことや、稲葉氏宅以外で見つかっていないことは、どうにも不自然に感じられる。
では、この「通諜」が稲葉氏宅から押収された資料の中になかった、とするならば、あと残る可能性としては、牧口氏宅からの押収分の包みの中に入っており、しかも学会への引き渡しから洩れた分の中にあった、ということになる。
つまり「通諜」は、昭和十八年六月二十五日付で文章が作られ、その翌日くらいまでに約三十枚がガリ版印刷された後、牧口氏宅に届けられたが、折しも六月二十九日には、理事の陣野忠夫らが非常識な罰論を使ったことが原因で逮捕され、そのゴタツキが起きたためであろうか、牧口氏は「通諜」を配布する機会のないまま、七月二日早朝から地方布教に出かけ(おそらく氏は、幹部の一斉逮捕などというほど、事態がさし迫っているとは思っていなかったであろう)、七月六日の下田での逮捕となったから、「通諜」は誰の手にも渡らないまま、約三十枚がそっくり牧口氏宅から官憲に押収されたものと考えられる。
されば、今回の新報がいうような、「獄中の野島を見ても『通諜』は一切出てこない」「『通諜』が実在していたのなら、野島は当然それを供述しているはず」「当時の理事・支部長だった人達にも配られていない」等というのも、むしろ状況としては当然のことといえよう。野島氏以下ほとんどの幹部達は、「通諜」の存在を知らなかったであろうから。
また、新報のいう「もし『通諜』があれば、とくに高齢だった牧口会長に対しては、保釈も検討されたであろう。(略)尋問調書や裁判書類には『通諜』は一切出てこないし、押収書類のなかにも『通諜』はないのである」等という疑難はどうであろうか。
じつは、当時の特高警察は、先に逮捕してあった陣野氏らを激しく取り調べ、学会弾圧の罪状を作成した上で、一挙に、牧口氏以下二十一名の幹部を逮捕に踏み切っている。つまり、学会を潰滅せしめる意志決定が、あらかじめなされていたのだ。
それであれば、まだ配布もされていない「通諜」なる文書が牧口氏宅からの押収資料中にあったとしても、当局としては、これを取り挙げるどころか無視を決め込むであろうし、ましてや「保釈を検討」したり、わざわざ「尋問調書」等の中に記録を残すようなヘマをするはずがない。悪名高い戦時中の特高は、人の良い民主警察ではないのである。
これで、「通諜」に関する大きな謎・・戦時中の証言や資料が出てこない理由・・が解明されたが、では、この「通諜」の存在についての、古い証言や資料はまったく皆無なのかといえば、それは否である。『冨士宗学要集』(五十九世日亨上人編)の第九巻の法難編・第十三章「昭和度」に、
「左の一編は小平芳平氏(※当時の学会教学部長)の記に依る」(四二九頁)
として、学会側から寄せられた弾圧記録が載せられている。そこに、
「十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、『伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう』の注意を、時の渡辺部長より忠告を受けた。牧口会長は、その場で暫く、柔らかにお受けした。(中略)合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諌暁の強い主張等を背景とし、直接には、牧口会長の折伏が治安を害するといい、また神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから、会長の応急策もすでに遅し(※以下、次々と牧口氏ら学会大幹部が逮捕された状況が述べられている)」(四三一頁)
との文を見ることができるのである。
この文中、すでに手遅れだった「会長の応急策」とは、まさに六月二十五日付「通牒」をさすことは明白である。もし、そうでないというなら、六月二十日に総本山で「忠告を受けた」後、七月六日に逮捕されるまでの間に打った「会長の応急策」とは、いったい何だったのか、また、どうして「すでに遅し」だったのか、それらを明らかにした上で反論しなければなるまい。
ともあれ、この宗学要集掲載の文が、「通諜」実在の傍証であることはもはや確実であり、このことは、とりもなおさず、〝学会の首脳陣は「通諜」の存在も、作成の経緯も知っていた〟ということを、雄弁に物語っているのである。
嗚呼(ああ)、なんたる不正直の謀略組織であることか・・。

崩壊した学会側の疑難!
自己矛盾と幼稚な妄説を破す

なお、右の宗学要集掲載の文中、「牧口会長は、その場では暫く、柔らかに(宗門の忠告を)お受けした」とあることについて、新報では、野島辰次氏の遺稿集『我が心の遍歴』(平成四年六月十九日発行)を頼りに、
「野島の記述は、当時の学会が、本山の申し出を後にも先にも、まったく受け入れなかったから弾圧された、ということであり、その意味で『通諜』などまったくなかったことの重要な証言といえよう」
などと、はしゃいでいる。
だが、この野島氏の遺稿は、氏自身の心に感じた、主観的な見方を書き綴(つづ)ったところの、まさに『我が心の遍歴』であり、一方の、小平教学部長の手による宗学要集掲載の文は、昭和十八年六月二十日の「忠告」の場に立ち合われた日亨上人が允可(いんか)されたものであり、また学会の公式見解ともいうべき記録である。
それを、その時の都合次第で猫の目のように変節し、これまで「裏切り者」「退転者」と罵ってきた野島氏の遺稿を利用して、自ら公認してきた記録の方を知らぬ顔で引っ込める、この破廉恥ぶり。信仰者として、恥ずかしくないのか、と言いたい。
これについては、稲葉荘氏夫妻が、昭和十八年六月下旬当時の出来事として、
「学会では、慌てて神札の取り扱い方を変え、いちおう受け取るよう、指示を流しました。私の家も、他の家も、それで神札を受け取ったんです。それが、おそらく本山からのお話のあった直後のことだった、と思います」
と証言していることだけ紹介しておこう。
最後に、今回新報が述べたてた「宗門、『野島作成説』で命取り」という論調については、宗門ではこれまで「野島作成説」など主張したことはない、ということをここに明記し、また「(通諜は)戦後に入信し、戦前の学会とは何の関係もない、ある特定の法華講員が作成した」との妄説については、ならば、その「特定の法華講員」の氏名と、その人物が「作成した」という根拠を責任をもって明示せよ、(どうだ、できまい? それは学会のムリな言い掛かりだからだ!)と申し伝えておく。