2016年2月1日


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慧妙 2016年2月1日

 

 

大石寺を詐称する 顕正会からの脱出②

 

 歪曲と捏造で塗り固められた顕正会史

顕正会・会長浅井が隠したかった驚愕の真相

 

                塔中・百貫坊法華講 元・顕正会本部壮年部長     石井 伸之

                                            顕正会

 『慧妙』前号(一月十六日号)で、顕正会によるニセ本尊乱発について述べましたが、その本尊問題を調べていくなかで、顕正会がいかに事実を歪曲(わいきょく)したり捏造(ねつぞう)してきたか、ということも知りました。

 顕正会に在籍していた当時(昭和五十一年~平成十六年)の私は、顕正会で発行する『冨士』と『顕正新聞』のみが真実を伝えている、と信じておりました。中でも、『冨士』の別冊として出版された『御遺命守護の戦い』(『冨士』第二百五十号)と『顕正会の歴史と使命』(『冨士』第三百四十八号)を熟読し、宗門と国を救うのは顕正会以外にはない、と盲信していたのです。

 ところが、この二冊に記載されていることの大半が、捏造と歪曲で作り上げられたものであり、真実とは程遠いものだったのです。

 顕正会本部は、顕正会の発行物以外の書籍を顕正会員が読むことを嫌います。それどころか最近では、昔と今の自語相違が発覚することを恐れ、過去に顕正会で発行した機関誌『冨士』ですら、読むことを禁じています。これでは、顕正会員が真実を知ることなど、まず期待できません。

 

 以下に、浅井昭衛の捏造・歪曲の実態を明らかにすべく、その一例として浅井が記述している「顕正会の発足」と「昭和四十七年七月六日、妙縁寺のお目通りについて」を取り上げてみます。

 

会長浅井

 

会員欺く「顕正会の発足」

  まず、顕正会の発足の歴史について、浅井昭衛は『顕正会の歴史と使命』に、おおむね次のように述べています。

 〝顕正会は、昭和三十二年の発足以前は、東京池袋の法道院に所属していたが、法道院の住職は、広宣流布への道念がなく、信徒はただの金集めの道具にしかすぎなかった。寺院経営と僧侶の世界での栄達だけを見つめているような職業的感覚に、我々は耐えてきた〟

 〝我々の純粋な信心を御覧になった日淳上人(当時の御法主上人)が、法道院住職の反対を押し切って、妙信講(顕正会の当時の名称)を妙縁寺所属の講中として正式に認証してくださった〟(『顕正会の歴史と使命』三〇~三二頁・趣旨)

と。

 しかし、これは全くのウソだったのです。私が調べた真相は、概略、次のようなものでした。

 浅井昭衛の父である浅井甚兵衛は、昭和五、六年頃に法華講員として入信しましたが、生来の慢心と我がままから講中を乱すような行動をとるようになり、注意されると逆恨みして勝手に所属寺院を飛び出し、寺院を転々としました。

 そして、最終的に目を付けたのが、当時、御主管の陣頭指揮のもとで一致団結して折伏を進めていた、東京池袋の法道院でした。そこに、浅井甚兵衛以下十名ほどが加わることになったのです。

 法道院の法華講は折伏に次ぐ折伏でどんどん大きくなり、加えて、急成長していた創価学会員も参詣してくるため、その人達を収容するために寺院は増築を重ね、昭和三十二年には二階の建造が計画されました。すると、この計画に目を付けた浅井父子が、御主管に対し、「僧侶に金を任せておけない。増築にあたっての会計一切を自分達にゆだねろ」とインネンを付けだしたのです。この頃、浅井甚兵衛は法道院で講頭にまで登り詰め、主な役職も浅井一族が占めていました。そして、この機に、自分達が御主管の上位に立とうとしたものと思われます。

 むろん、御供養に対して云々することは、信徒としてあるまじき行為です。御主管が浅井父子の申し出を一蹴(いっしゅう)したところ、あろうことか、浅井父子は、「住職が庫裡(くり)を増築するために大金を集めようとしている。今は、寺ばかりをよくする時ではない。広宣流布の戦いの方が先ではないか」と、問題点を巧みにすり替え、講中に宣伝し始めました。

 しかし、こうした不埒(ふらち)な策謀が受け入れられるはずもなく、浅井父子らは完全に浮き上がり、ついには法道院から出ていかざるをえなくなったのです。

 この真相を知ってみれば、浅井昭衛の言う、〝法道院の住職は、広宣流布への道念がなかった〟だの、〝信徒はただの金集めの道具にしかすぎなかった〟だの、〝住職は、栄達だけを見つめているような職業的感覚だった〟などということが、いかにウソッパチであるかが歴然とするではありませんか。むしろ、広宣流布よりも我が身の栄誉栄達に身をやつし、金に執着していたのは、他ならぬ浅井父子だったのです。

 また、〝浅井父子の純粋な信心を御覧になった日淳上人が、法道院住職の反対を押し切って、妙信講を妙縁寺所属の講中として正式に認証してくださった〟というのも、浅井昭衛の作り話で、実際は、浅井父子について出ていってしまった人達の信心を心配された法道院御主管が、日淳上人にお願いして、妙縁寺へ所属替えができるようにした、というのが真相です。

 日淳上人も、度重なる浅井父子の不祥事をよくご存じだったので、また妙縁寺でもトラブルを起こしてはいけないと考えられ、既存の講中に入れるのではなく、最初から別な単独講中の〝妙信講〟として認可されたのです。日淳上人が浅井父子を信用されていなかったことは、講中を認可する際、指導教師として妙縁寺の住職であった松本日仁(後に擯斥)だけでなく、法道院御主管も加えて、異例の二人態勢にされたことによく現われている、といえるでしょう。

「猊下の御内意」も捏造

 なお、日淳上人が指導教師二人態勢にされたことについては、浅井昭衛は講員らに隠しており、現在に至るまで一言も触れていません。

 このように、自分の野心に都合の悪いことは、御法主上人のお言葉であっても勝手に曲げたり隠したりする一方、都合のよいことだけをとり出して会員支配の具として用いるという性癖は、当時からの常套手段でありました。

 たとえば、昭和四十七、八年当時、創価学会の発願による〝正本堂〟が総本山に建立された時、浅井昭衛は「大聖人御遺命の〝事(じ)の戒壇〟は、広宣流布の暁に国立(こくりつ)で建立されなければならない。日達上人は、創価学会の圧力に屈して、正本堂を〝事の戒壇〟と言った。御遺命に対する違背だ」と主張して、宗門に激しく反発しましたが、この時、彼は講員(会員)に向けて、「日達上人は、本当は正本堂を〝事の戒壇〟とは思われていない。創価学会に懇願されて、仕方なく言ったのだ。自分は、日達上人からその御内意を聞いた」(趣旨)と言っていました。

 ところが当時、この浅井昭衛の言について、日達上人は法華講員全体に向けて、「浅井は、私が言ってもいないことを、言ったと宣伝しているようだが、じつにけしからんことである。私が、一講中の講頭のみに、そのようなことを言うはずがないではないか」(趣旨)と仰せられていたのです。

 私は、それまで浅井昭衛の言葉を信じていましたから、宗門側の発行物からこの日達上人のお言葉を見つけた時は、本当にショックを受けました。

 このように、御法主上人のお言葉まで捏造し、顕正会を正義に見せかけ、会員を欺くという、浅井昭衛の手法は、昨日今日に始まったことではないのです。

 そして、浅井は、その真相がばれないように、寺院や他の法華講との隔離を完全に行なうとともに、自己の神格化につとめました。そのために邪魔になる法道院以来の有力幹部を次々と陥(おとしい)れて排除して、浅井の独裁を強め、組織を私物化していったのです。今の顕正会組織に不信を抱く人ならば、これが浅井のやり口であることは、よくわかるのではないでしょうか。

 

「訓諭」と「妙縁寺の御目通り」の真相

 浅井はまた、「昭和四十七年六月七日、妙縁寺のお目通り」について、『顕正会の歴史と使命』(八三頁)に、日達上人のお言葉を悪用して次のように記述しています。

 「(日達上人は)『今日、私は死ぬ気で来ている。下着も取り替えてきている』と、いきなり言われた。妙信講の護法の赤誠を幾度も欺いたことは、細井管長(※日達上人のこと)が一番よく知っている。その後ろめたさが、この言葉となったのでしょう。

 そして『このような気持ちで来ているのだから、何とか……』と、事態の収拾をしきりに求められた」

と。

 浅井は、昭和四十七年四月二十八日発布の「訓諭」の写真を載せていますが(『顕正会の歴史と使命』七十七頁)、それは全文ではなく、後ろ半分を故意にカットして掲載しています。そして、訓諭に誤りがあるかのように見せ、〝日達上人に訓諭の訂正を迫り、猊下が訓諭の訂正ではなく内容を打ち消す文を『大日蓮』に載せる約束をした〟というストーリーに仕立てています。

 事実の歪曲もここまでくると、やはり、浅井昭衛は悪知恵にたけた、特殊な才能の持ち主、といわざるをえません。

 まず、『顕正会の歴史と使命』に掲載されている訓諭の写真で、カットされている後半部分は以下のとおりです。

 「但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。

 宗門の緇素よろしく此の意義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。

 右訓諭す。

 昭和四十七年四月二十八日

 日蓮正宗管長 細井日達」

 こうして訓諭の全文を拝すれば、日達上人は、正本堂を広宣流布達成の暁の事の戒壇である、などとお考えになっておらず、浅井昭衛の主張がでっち上げであることがよくわかると思います。そして、この訓諭が発布されてから浅井昭衛の狂気ぶりは勢いを増していくのです。

 宗務院のみならず、直接、日達上人に対して、脅迫内容の文書を何度も送りつけたのです。その内容を総合するならば、「自分達はついに仏法守護のための刀杖を持つに至った。自分達の主張を通さなければ、非常手段に訴える。その時は流血の惨事が起きる。その対象は宗務当局と学会である。そして最後は自分達も死ぬ」(要旨)というものでした。

 これは、もはや議論ではなく脅迫です。何とか〝猊下の御内意〟などと称して日達上人の権威を借りて、自分達の偏見を通そうとし続け、それが叶わぬと見るや、今度は、脅迫に出たわけであります。口では、大聖人の御遺命を守るとか、猊下の御本意を実現するなどと言いながら、実際に行なっていることは、自らの偏見を通すためには手段を選ばぬという、異常きわまりないものであります。

 こうした経緯の中で、まかり間違って不祥事が起きたら、大聖人に対して申し訳がない、とお考えになった日達上人が「私が会って説得してみよう」と深い御慈悲を示され、昭和四十七年七月六日に妙縁寺まで御下向くださったのです。

 日達上人は、御一身を賭しても宗内の不祥事を何とか未然に防ごう、という御決意に満ちておられました。周囲の方々に、「私はいつ死のうとよい。その覚悟は法主の座に着いた時からできている。しかしながら、思いつめて狂気のようになった者達を思い止どまらせるためには、ある程度、包容してやらなくてはならない」と仰せられていました。そして、「私は法主として信者を信じたい。浅井はわからず屋だが、御本尊を受けている以上、胸の底のどこかに、令法久住、宗門を思う気持ちがあるはずだ。私が誠心誠意話せばわかってくれるだろうと期待する」と、まことに海のように広いお心で臨まれたのであります。

 日達上人の浅井父子に対する説得の内容は、この時、お伴(とも)をした四人のうちの藤本庶務部長(現・藤本日潤尊能化)が将来のために細かく記録をとっていました。これによりますと、対談の要旨は次のとおりです。

 日達上人は、法門の上から、また世間の道理の上から、辛抱強く浅井父子を諄々と説得されました。しかし、浅井父子は聞こうともせず、「盗賊、奸賊はのぞかねばならぬ。刺客となり、刺し違える」などと口走り、「大聖人は、由比ヶ浜で首を刎ねよなどと申されているではないか。三島由紀夫だって主義主張のために生命を投げ出した」などと非常識な言葉を続ける始末でした。

 さすがに日達上人も色をなされ、「私がやめてくれと言っても聞けないのか」「訓諭は私が私の責任で出した。それが原因であなたが人を殺すと言うなら、まず私を殺してほしい。私が責任をもってやっていることだ」「他の誰の圧力でもない。皆を責める前に私を責め、皆を打擲(ちょうちゃく)する前に私を打擲しなさい」と語気するどく言われ、筆と紙を取り寄せ、辞世の句をしたためられました。そして、それを浅井に渡された上で、「これは私が昨夜作ったものだ。下着も全部取り換えて来ました。さあ、私を突くなりどうでもしなさい」と、浅井父子を見据えられたのです。さすがに浅井父子もシュンとしてうなだれ黙り込んでしまい、しばらくたって「返す言葉もありません」とつぶやくように言ったのであります。

昔から続く会員洗脳の常套手段

 こうした、当時の貴重な記録を読ませていただき、また、当時を知る方々の証言を伺い、日達上人と日顕上人の御指南を真摯に拝するならば、当時の宗門が、広宣流布をめざし僧俗一体となって、皆で昼夜を問わず汗を流し、御奉公の赤誠を尽くしていたことは明らかであります。浅井昭衛が言う「宗門が学会の圧力に屈して御遺命を捨てた」とか、「学会の金に目がくらみ、宗門は学会の操り人形に成り下がった」などというようなことは全くなく、下劣な浅井昭衛の作り話であったことがわかります。

 浅井昭衛は御宗門を批判して、「天を地と言い、白を黒と言いくるめる卑劣極まりない姿」と、総幹部会で声高に言っておりましたが、その言葉はまさに浅井昭衛自身に当てはまる言葉ではないでしょうか。

 浅井昭衛は、数え上げればきりがない嘘で顕正会員を洗脳し、さらに真実に触れさせないよう心理操作をします。そして、顕正会員に正法正師を憎ませ、広宣流布の邪魔をさせる―これが魔の所業でなくて何でありましょう。

 顕正会員の中には、本物の大聖人の仏法を求めている人達が大勢いると思います。一日も早く浅井昭衛の嘘を見破り、日蓮正宗に帰依すべきであります。

      (つづく)

 


 

 

 

 

(2面)
 
 
 

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(3面)

 

新連載

創価学会の目指す

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第1回

邪宗「日蓮世界宗創価学会」の船出

日蓮世界宗創価学会 

 宗門から破門されてから約二十五年が経過する池田創価学会。

 年々、謗法色を濃くする創価学会は、近年、驚くべき方向へと舵(かじ)を切り始めた。宗名、会則、観念文などの変更から、大御本尊の軽視に至るまで、じつに大胆な変貌ぶりである。

 本宗は、血脈を重んじ厳格に化儀化法を守り伝えてきたことから、古来より「はりがね(針金)宗」と称されてきた。その「はりがね宗」の信徒団体として、数十年間、曲がりなりにも信仰してきた学会が、いまや舵取りを失った蛇行船のように迷走し続けているのである。

 小欄では、現今の創価学会が目指す邪義をあげ、徹底的に破折していきたいと思う。

 もちろん、末端の学会員にいまだ定着していない新教義もあるが、認知していない学会員のためにも、早期に破折を加え、一人でも多くの学会員の目を覚(さ)ましていきたい。

 さて、まず「日蓮世界宗創価学会」という宗名について述べたいと思う。

 創価学会は、以前から特許庁に商標登録していた新しい宗名「日蓮世界宗創価学会」を、ここへきて大々的に宣伝し始めている。

 創価学会の新しい会則には、

 〈池田先生は、創価学会の本地と使命を「日蓮世界宗創価学会」と揮毫(きごう)されて、創価学会が日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団であることを明示された。そして、二十三世紀までの世界広宣流布を展望されるとともに、信濃町を「世界総本部」とする壮大な構想を示され、その実現を代々の会長を中心とする世界の弟子に託された〉(創価学会HP)

とあり、わざわざ池田の名前を出して、宗名の名付け親が池田であることを強調している。

 だいたい池田が「日蓮世界宗創価学会」の宗名を揮毫したというが、その事実さえ疑わしい。すでに公(おおやけ)の場に姿を現せない状態になっている池田が、そのようなものを書いたとすれば、それは倒れる何年も前ということになるが、だとしたら、その揮毫なるものが『聖教新聞』紙上に公表されていてもよさそうなものだ。

 じつにいぶかしい。

 また会則では、宗名の意味について、〈創価学会が日蓮大聖人の仏法を唯一世界に広宣流布しゆく仏意仏勅の教団であることを明示された〉としているが、そもそも現在の学会は会則のなかで、大石寺所蔵の本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としないと、すでに発表している。

 つまり、人法一箇の大御本尊を信仰しないということは、大御本尊に備わる人本尊たる日蓮大聖人をも否定していることと同じである。大聖人を信仰の対象としない今の創価学会が「日蓮」を名乗る資格はない。今回の宗名改定は、他門流の日蓮宗と同じく、「日蓮を悪しく敬(うやま)」った大謗法行為であることを会員は知るべきである。

 そして、「世界宗」という表現に関しても、創価学会の布教によって大聖人の仏法が世界に弘まっているのではなく、あくまで池田教が世界に蔓延(はびこ)っているだけであるから、正しくは「池田世界宗」である。

 ともかく、いままでの「日蓮正宗から破門された創価学会」という認識を払拭(ふっしょく)させるために、「日蓮世界宗創価学会」という、日蓮正宗と全く無縁の宗名を名乗り、本当の決別を計ろうとしているわけだ。

 しかしながら、その実態は、多くの会員に日寛上人書写の御本尊を元として学会が作製したニセ本尊を拝ませ、また二〇一三年十一月に完成した大誓堂にも日昇上人の御本尊を安置し、さらには教義内容においてもいまだ日蓮正宗の教義を踏襲(とうしゅう)している。いま、必死に創価大教授である宮田幸一らにより、本宗教義からの脱皮を画策している様子だが、結局、過去の学会教義を全否定することとなる矛盾(むじゅん)は避けられない。

 これからの池田世界宗創価学会が、ますます混迷の度を深め、謗法路線を迷走していくのは、間違いのないことだ。我々はどこまでも邪宗池田教を破折していく。

 

破門から25年、学会は「日蓮世界宗創価学会」へ

宗名・本尊・教義ー全てが矛盾だらけの船出

 

 

 

 

 

連載

変貌した創価学会

 

第25回

  「法華弘通のはたじるし」について

 

かつて学会は「旗印は集団の生命・要」と

 

その「生命・要」を変遷させてきた学会

創価学会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連載 法華講員の弁えたい信条

   第43回

四十三、成果主義にあらず

 

折伏とは邪宗謗法の人を折り伏すこと

成果主義は講中衰退・信心衰退の因に

 

体験こそが人の心を動かす鍵に

 

 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 

(4面)

 

 

 

 

 

11
 
(第336回)

 

 

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