2016年2月16日号


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慧妙

 2016年2月16日

 

 

創価学会からの脱出

 

 聖教新聞社時代、池田大作の姿に失望

 学会から抜け出して知った広い世界

 

  北海道札幌市・日正寺支部 元聖教新聞社論説委員・教育評論家     渋谷 照夫

脱会                                            

 

51年ぶりの再会

 私は、二十歳の時に創価学会を通じて日蓮正宗に入信し、その後、東京学芸大学、同大学院を卒業して、昭和四十五年四月に聖教新聞社に入社しました。

 その聖教新聞社時代に垣間見た池田大作の品性の下劣さについて、昨年十月十六日号の『慧妙』紙(破折対談「カルト創価を斬る」)で語ったところ、それを見た旧知のMさんから電話をいただきました。Mさんは、五十一年前に私の折伏によって創価学会に入ったのですが、現在は、創価学会を脱会して法華講員となっていたのです。

 そのMさんと昨年末に都内の居酒屋でお会いしました。Mさんと三時間余り語り合って、お互いの半世紀に及ぶ人生を振り返ることができました。そこでお互いの信心に関する話題で確認し合ったことは、以下の三点でした。

①日蓮正宗創価学会に入信した動機

②創価学会を退会(脱出)した理由

③創価学会からの脱出後の経過

 

 まずは、二人の会話を通して、この三点について述べます。

 

創価学会に入った頃

M あなたが入信したのは、二十歳の時だそうですが、創価学会に入った場所や動機を教えてください。

私 集金先(当時は新聞配達をしながら勉強をしていた)のお客さんから、「あなたは仏教に興味がありますか?」と言われて、「あります」と答えたら、その人が、法華経や十界の生命などの話をしてくれたのです。私は新鮮な感動を覚えて、即座に入信を決意しました。

M 信心することに抵抗感がなかったのですね。私も少し似ていました。杉並区の朝日新聞店の寮であなたと同室の生活をしたとき、あなたが朝晩の勤行をしている姿を物珍しそうに見ていたのですが、そのうち、誘われるままに創価学会の学生部の集まりなどに参加して、気がついたら入信してしまった、という感じでした。

私 順縁というか、当時、私が折伏した二十~三十人の方々は、みんな素直に入信しましたが、Mさんもそうでしたね。

M 正直言って、あなたに連れられて行った学生部の集まりは、イヤイヤだったよ(笑い)。でも、御授戒の時は素直な気持ちでした。

 

創価学会を脱会した理由

M ところで、あなたと同じ部屋で生活したのは三ヵ月くらいでしたが、私の印象では、当時のあなたは心から池田大作を崇拝しているように思えたのですが。

私 そうだったですか。私としたことが人を見る目がなかったと、恥ずかしい思いです。

M いや、私も同じでした。今思えば、詐欺(さぎ)師のような人物を崇拝してしまったのはなぜだろう、と不思議に思います。

私 良く言えば、純真で真面目、悪く言えば、無知で軽率だったのかもしれませんね。Mさんは、創価学会をいつ頃どのようにして退会されたのですか?

M 創価学会が、日蓮正宗宗門からの解散勧告を経て〝破門〟にされたのは平成三年十一月でしたが、私は〝破門〟の一年前に学会の間違いに気づき、学会を脱会して日蓮正宗のお寺に所属させていただきました。法華講員になってからは、生活も充実して信心活動にも力が入ってきました。

 じつは昨年、あなたを思い出して折伏の対象先に入れ、住所を聞き出すために聖教新聞社に電話をかけようと考えました。その矢先に『慧妙』を見て、仰天してしまった(笑い)。

私 聖教新聞社は、入社から三年半の昭和四十八年に辞めました。その時に、新聞社だけでなく、創価学会も退会しました。

M あなたが辞めた頃の創価学会は、〝飛ぶ鳥を落とす〟ような勢いだったでしょう。しかも、学会の中枢からの脱出だったのですから、大変だったのではないですか?

私 そうですね。当時は、学会を辞める人はほとんどいなかったです。たぶん、私は、聖教新聞社に辞表を出して同時に創価学会も退会した、最初の人間だったと思います。

M よく無事に辞められましたね。

私 いろいろな方からそう言われましたが、実際、一般の会社を辞めるのとは違って、学会は特殊な閉鎖社会だから、難しかったです。私の場合はとくに、諸悪の根源である池田大作に良くも悪くも目を付けられていたので、池田が一対一で私に退職の理由を問いただすなど、大騒ぎでした。(そのあたりの話は、『慧妙』の十一月十六日号に詳しいので省略)

M 創価学会のインチキに気がついたのは、聖教新聞社に入社した後ですか?

私 そうです。その前から組織のあり方や学会幹部には不信感がありましたが、トップの会長は正しいと信じていました。諸悪の根源が池田会長だと気づいたのは、入社して数ヵ月後でした。

 私が入社する前年(昭和四十四年)に藤原弘達著『創価学会を斬る』が発刊されて、聖教新聞の社内でも話題になっていました。先輩たちは、表向きはこの本を批判していましたが、裏では著者の指摘に感服していました。

 

 聖教新聞社に入社したおかげで、私は、池田会長には信心がなく、会員の信仰心を利用しているだけだ、と気づくことができました。

 

創価学会から脱出した後の経過

M 他の人たちは、会長に信心のないことがわかっても、辞める人がいなかったのですか?

私 私も不思議でした。創価学会というのは、信仰の団体ではなくて、信仰を利用している団体だったのか、と疑いました。

M その後、破門されて、総本山から離れ御僧侶がいなくなった今でも、公明党を熱心に応援し続けているのですからね。

私 私は聖教新聞社を辞めると同時に創価学会も辞めて、信仰自体もやめてしまいました。〝羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く〟という態度でした。勧誡を受けて日蓮正宗に戻ったのは、今から約十年前の平成十八年です。

M ずいぶん長い間、信仰から離れていたのですね。

私 三十年余りも眠ってしまいました。ただ、私の場合は、当時から学会員以外の人脈も多かったので、退職後すぐに、心理学者の波多野完治・勤子先生ご夫妻から声が掛かり、生涯教育の学園に勤務できました。そこで、生涯教育の理論と実践を学ぶことができたのです。

 その後、ライフワークの生涯教育をベースにした学園を創設して、自由に教育実践をしながら、講演や執筆活動などを楽しみながら続けてきました。

M 日蓮正宗に復帰されたキッカケは?

私 私と同時に信心を辞めていた妹が、夫の死を機に信心するようになり、かつての折伏親である私を目覚めさせてくれたのです。

M それからの十年は、いかがでしたか?

私 三十余年ぶりに総本山に参詣させていただいたときは、総本山の荘厳な威容と、法華講の人たちの清らかな信仰心を感じて、感動しました。

 すぐに学会時代の友人たちに手紙を出しまくり、折伏を開始しました。そして、かつて聖教新聞に連載を一緒に書いていた親友の成瀬久昭さんを、勧誡に導くお手伝いができました。さらに、成瀬さんと共に約十人の人たちを、勧誡、御授戒に導くことができました。

 以上、Mさんとの会話を通して、入信の動機、退会(脱出)の理由、脱出後の経過を紹介させていただきました。

 次に、私が創価学会を脱出するまでの心境の変化などについて述べてみます。

藤原弘達

 

人生の岐路に立たされて

 誰でも人生の中で幾度か、岐路に立たされ決断を迫られることがあると思いますが、私は、青春時代に三度の大きな岐路がありました。

 一度目は、成人式直前の頃に、日蓮正宗の信仰を勧められたことです。すぐに入信を決意し、生活が大きく変わりました。

 二度目は、就職の時期でした。私は、東京学芸大学に新設された大学院の一期生だったせいか、文部省から好条件の誘いがあり、また、友人からは潮出版社(創価学会系の出版社)への誘いもありました。その時、自分には公務員は向かないと思いましたので、潮出版社を選びました。ところが、採用試験は学会本部全体の職員として行なわれ、そのために配属先が聖教新聞社の論説部になってしまったのです。

 三度目は、上記のMさんとの会話のとおり、この聖教新聞社へ配属されたおかげで、池田大作の正体を知ることになり、聖教新聞社と創価学会を辞めたことです。この三度目の岐路での判断は、私のその後の人生に幸運をもたらしてくれました。

 私は、今でも不思議に思い続けていることがあります。それは、三度目の岐路の時、私より先に池田大作の正体を知って陰で批判をしていた仲間たちの多くが、創価学会の職場に定年まで居座っていたことです。

 家族を養うなどの事情はわかりますが、信仰者としての矛盾に心が痛まないのでしょうか。今のところ、日本は、どこかの国のようにトップを批判したら消されてしまうというような心配はないはずです。自分の本心を偽らずに納得できる人生を生きたいものです。

 

なぜ学会は‟出版妨害”をしたか

 四年前に『「創価学会を斬る」41年目の検証』(言論出版の自由を守る会著)という本が出版されました。

 昭和四十四年当時、藤原弘達氏の著作『創価学会を斬る』が出版された際、創価学会による出版妨害が大きな社会問題にまでなったわけですが、『…41年目の検証』では、その出版妨害事件を振り返ると同時に、当時の藤原弘達氏の指摘をあらためて考察しています。

 私は、この『…41年目の検証』を読みながら、三度目の岐路の時に、藤原弘達氏の指摘によって、創価学会の人権侵害や歴史改竄(かいざん)の危険性に目を覚まさせられたことを思い出しました。

 当時、私は、自分が学会の組織内にいることが世の中のためになるのかどうか、を考えておりました。その時、藤原弘達氏の著書の目次を開くと、

第一部 実態―これが創価学会の正体だ

第二部 分析―その病理を衝く

第三部 展望―その危険なる未来

とあり、読み進むなか、私が創価学会に対して疑問に思い危惧(きぐ)していたことが、学問的に明快に指摘されていたのです。創価学会が国家権力を使ってまでこの本の出版を妨害しなければならなかったほど、創価学会にとっては恐ろしい本だったのだと思います。

 

見え透いた池田の人心掌握術

 さて、創価学会に未来はないと確信した私は、この組織から出ようと思う反面、内部から改革してみようとも考えました。そこで、改革案を出せるだけの実績を上げようと考え、当時担当になった、牧口常三郎初代会長の伝記の連載に取り組みました。

 聖教新聞での連載が始まると、たびたび、池田会長から金賞・銀賞などの表彰を受けるようになりました。私は、今がチャンスと思い、池田にも直接、組織内の改善・改革の提言をしました。池田は、最初の頃は受け入れてくれる様子でしたが、しばらくすると、〝職員全体会議〟などで、私は毎度のように「生意気な奴だ」と罵倒(ばとう)されるようになりました。しかし、面白いことに、罵倒された後には必ず、秘書室長からこっそり、金品などの贈り物が届くのです。池田大作の人心掌握術だったのでしょう。

 ちなみに、池田大作は、一対一の時はけっして叱らず、むしろ、猫のようにすり寄ってきますが、取り巻きがバックに控えている場では、自らの権威権力を誇示したいのか、まるで猛獣のように罵倒したりしました。私は、そういう姿を見るたびに心が冷え切っていき、内部から改革しようとの意気込みが消え失せていきました。

 幸か不幸か、私が聖教新聞社に辞表を出した昭和四十八年頃は、〝言論出版妨害事件〟の他にも、宗門対策や共産党対策などで学会本部は混乱していました。そのためか、私の組織からの脱出後のイヤガラセはほとんどありませんでした。

 かくして、私の波乱に満ちた前半の人生が終わり、折り返しの後半の人生が始まったのです。

 

退職後の充実した人生

 創価学会という閉鎖社会から脱出してみると、広い世界が待っていました。波多野夫妻から生涯教育の理論と実践を学んで学園を創設。その実績がマスコミを通して注目され、講演や執筆活動が増えて、大学での講義も十年以上続けました。どなたかのように名誉賞を欲しがったわけではないのですが、社会教育分野で文部科学大臣賞をはじめ国や地域社会からの表彰もされました。

 そして、勧誡を受け、日蓮正宗に再入信させていただいてからの十年間は、さらに心身ともに健康となり、感謝の毎日です。

 私は、唱題・折伏・登山を仏道修行の三点セットと心得ています。今年の一月二十四日には日正寺の支部総登山に参加させていただき、勧誡後五十回目の御開扉を、日如上人猊下のもとで受けさせていただきました。おかげさまで本年の「折伏躍進の年」を元気にスタートができました。

 いまだに創価学会の閉鎖世界に縛られ抜け出せないでいる人々には、早く大石寺の正信に戻ってきてほしいと願うばかりです。

 

 

 

 

 

(2面)
 
 

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第62回

 

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(3面)

 

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(4面)

 
 

 

 

11
 
(第337回)

 

 

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