私が見た創価学会2


私が見た創価学会2

前 編  「十一・一六」スピーチは私が録った!
今、初めて明かす録音の経緯

善福寺信徒 大渕清子
(元・創価学会女子部本部長)

創価学会は、平成三年に日蓮正宗から破門され、今では完全に邪教集団となってしまいましたが、破門に至る課程で、日蓮正宗に反逆しようとする池田大作の本音が明るみに出たのは、いわゆる「十一・一六」平成二年十一月十六日の本部幹部会における池田スピーチの録音テープでした。
ところが、創価学会側は、この録音テープを「出所不明の代(し)ろ物」と切り捨てることによって、池田の問題発言に対する指摘を〝言い掛かりである〟と吹聴したのです。
しかし、あの「十一・一六テープ」は、出所不明などではありません。当時学会の女子部であった私が、会場で生録音したものなのです。
今、その時の経緯を明らかにしたいと思います。

学会内部からの改革を決意

女子部本部長(当時)だった私が、小川頼宣さん(元・学会本部広報部副部長)に連れられて、後藤順子さん(当時・女子部大B長)・河上雅夫さん・大渕両平さんらと共に、福島源次郎さん(元・学会副会長)のお宅を訪問したのは、平成元年のことでした。
その当時の私は、原島嵩氏(元・学会教学部長)や山﨑正友氏(元・学会顧問弁護士)らの内部告発によって次々と明るみに出た池田大作の女性スキャンダルを耳にし、学会幹部の言う〝素晴らしい池田先生〟と〝スキャンダルまみれの池田大作〟のあまりのギャップに、頭の中は混乱していました。
すでに池田大作の本質を見抜いていた福島源次郎さんは、私達に対し、池田の誤りを真剣に話してくれました。そして、執筆中だった『蘇生への選択』の内容にも触れて、
「池田の邪義邪説から学会員を目覚めさせる、信心覚醒の戦いをやろうと思う」
と、内部からの改革を志していることを打ち明けてくれたのです。
私達はその場で、一緒に戦うことを決意し、その日から福島さんと行動を共にしました。この時参加した五人が、後に「蘇生の集い事務局」の中核になったのです。
『蘇生への選択』が発売されると同時に、『月刊アサヒ』で「池田大作のウソと金」という特集が組まれました。朝日新聞編集局社会部長待遇を務め、長く池田大作と創価学会のアドバイザーを務めてきた央忠邦氏が一肌脱いでくれたのです。山手線等の中吊り広告で大々的に宣伝され、とても驚きました。
読者からは数多くの賛同の声、批判の声が寄せられました。そうした中で、小川さんと後藤さんを中心に、賛同者に声を掛け、池袋の区民センターで池田の邪義を正す勉強会を開催することになりました。第一回目は小さな会議室で、受講者は二〇人にも満たないものでしたが、池田の邪義から解放されていくごとに、不思議と気分がすっきりと晴れるのです。
一方、学会の妨害は激しく、会場の出入り口にはいつも学会員の車が駐車し、参加者の顔写真を撮ったり、尾行して自宅をつきとめ、嫌がらせをするなど、大変な日々でした。我が家にも、玄関先にゴミ袋が散乱した状態で置かれたり、玄関の扉には汚物が塗られたりしました。

「池田の問題発言を録音しよう!」

こうした中で、福島さん小川さん達が大阪や北海道の勉強会に行った折、御住職様方から
「池田は間違っています。でも証拠がありません。〝昭和五二年路線〟の時は、聖教新聞や大白蓮華で池田の邪義ぶりが公然と書かれていましたから、私達も攻めやすかったのです。証拠がほしいですね」
と言われました。
「よし、じゃあ池田と学会幹部が何を話しているか、テープに録ろう!」 私達は、これこそ、私達の隠された任務だと思い、張り切りました。
平成二年、会合のたびに池田大作の問題発言が続くなか、実際に本部幹部会での池田大作のスピーチをテープに録りに行くことにしました。
まず機材が必要です。私達は、秋葉原に行き、高性能のテープレコーダーを買いました。
第一回目は、私一人が会場の渋谷文化会館の中に入り、他のメンバーは外のホテルで待機していました。事の重大さを思うと、自然と緊張感が湧いてきます。
ところが、会合を終えて意気揚々と皆の所に戻り、バックの中をふと見ると、機械の入力ランプが消えているではありませんか。スイッチが入っていないのです!
もう頭の中が真っ白になってしまいました。会場では何度も何度も、スイッチが入っているかどうか点検したはずだったのですが、緊張感のあまり、逆にスイッチを消してしまったのです。
次こそは、という思いで、二回目に臨みました。今度はうまくいった、と胸をなでおろしたのですが、マイクの位置で失敗しました。
とにかく緊張していましたから、心臓がドキドキしており、せっかくの高性能の機材がまるで医者の聴診器のように心臓の音を拾ってしまい、肝心の池田のスピーチが聞こえないのです。
落ち込むことばかりです。とにかく唱題をして頑張ろうと、次に臨みました。
三回目は、マイクの位置を変えて録音をしました。とてもきれいに録音されたのですが、今度は、操作ミスのためか、テープの片面のみしか入っていませんでした。森田と秋谷の話だけで、肝心の池田のスピーチはほんの少ししか入っていません。

「十一・一六」の録音に成功

そして、問題の平成二年十一月十六日、四回目の挑戦です。場所は、これまでと同じ、渋谷文化会館です。
この時は、念のため、もう一人(男性メンバー)がテープレコーダーを持ち込むことになりました。私は、入場券を準備してもらっていましたが、万一、そこから名前が判ると危ないと思い、どさくさに紛れ、入場券なしで入ることにしました。
私はうまくいったのですが、もう一人の男性は、受付で止められ、ちょっと問題になりました。何とかうまくその場をつくろい、大事には至らなかったそうです。今思うと、やはり魔が強かったのだと思います。この間、ずっと小川さん、後藤さんは蘇生の集い事務局で唱題をしてくださっていたそうです。
録音テープは、両方とも、きれいに入っていました。小川さんから、「池田の音声もクリアだ。これで複数本のテープが入手できた。証拠能力としては十分だよ」と言っていただき、私は、ホッとしてその場に座り込んでしまいました。
その夜、テープを福島さんに届け、福島さんは、録音テープと反訳文にお手紙を添えて、それを重大な覚悟で総本山に送られたそうです。
私は、「よかった、お役に立てたんだ」と、心から御本尊様に感謝のお題目を唱えました。
後で聞いたところによれば、他にも録音された方がいたそうですが、それらのテープの中でも、私の録音したものがいちばんクリアに録れていたそうです。
それからは、学会の警戒がとても厳しくなりましたが、一方、渋谷文化会館の他、戸田記念講堂や杉並文化会館等の入場券も簡単に入手できるようになり、録音活動も上手になって、そのつど、小川さんから福島さん経由で提出し続けました。
時には危ないこともありました。男性メンバーが戸田記念講堂に入った時、受付で取り囲まれて別室に連れ込まれ、数時間にわたって軟禁状態になったあげく、録音機に入っていたテープを没収されたのです。
その男性は、「蘇生の集い」の勉強会の役員をやっていたことから、学会に写真を撮られていて、その写真が戸田記念講堂の創価班まで回されていたようです。
それにしても、「十一・一六」のテープがこんな大きな影響を与えるとは、当初は想像もつきませんでした。ましてや、池田大作の総講頭資格喪失から創価学会の破門に至るとは思ってもいないことでした。
今でも渋谷を通るたびに、あの時の緊張感が思い出されます。先日も仕事で付近を通りましたが、あの時の「ドキドキ感」が鮮やかに思い出されました。私にとって十一月十六日と渋谷は一生忘れられないことでしょう。

今、法華講員として

その後、私達は創価学会を脱会して、日顕上人猊下の御慈悲により、晴れて法華講員となりました。堂々と胸を張って戒壇の大御本尊様の御開扉を受けられる身にしていただいたのです。なんとありがたいことでしょう。
一方、私の家族のことですが、私の活動に対して狂ったように反対していた母が病で倒れ、入院中の平成二十年、やはり学会員だった姉が交通事故で亡くなりました。青信号の横断歩道を歩いている最中に、トラックに胸を轢かれて即死したのです。
母はとてもショックを受けた様子でしたが、私は思いきって、「まじめ一方の姉ちゃんがこんな死に方をするなんておかしくない? 成仏とは程遠いよね。これは罰だと思う」と言うと、母は茫然としながらも素直にうなずきました。猛反対をし続けた母がうなずくなんて、こんなことは初めてです。
十五年近く閉ざされていた母の心が、開かれ始めたのです。この時ほど御本尊様のお力をありがたく思ったことはありません。
「お母さん、昔、総本山にも何度も連れて行ってくれたよね。もう一度、戒壇の大御本尊様にお目通りに行こうよ」と言うと、母は「うん」とうなづいてくれました。
『立正安国論』正義顕揚七五〇年にあたる本年、何としてでも大御本尊様のもとに母を連れ行き、懺悔滅罪の祈りをさせたいと決意しております。
(つづく)
【慧妙平成21年3月1日号より転載】